로그인朝食を終えたラングレー家では、久々にゆったりとした空気が流れていた。
エルキュールにとって食事というのはほとんど必要のないものであったが、こうやって家族と過ごすことは貴重なことである。
同じものを共有するのは悪い気はしない。これからは変に家族を避けることはやめようと、エルキュールは改めて決心し――
「そうだ、買い物には一緒にいけないが、ヌールを出るまでは送っていこうか?」
一つ提案を投げかけた。せっかく誘ってくれたのを断ってしまうのはやはり申し訳なかった。
「あら、いいの? お友達を待たせてるんでしょう?」
「……別に、友達ではないが。彼との待ち合わせの時間にはまだ少し間があるから、それを無駄にはしたくない」
「じゃあ、途中まで一緒に行こう、兄さん! ふふ、三人で外出なんて何年振りかな……そうだ、このことは日記に書いておかなくちゃ」
声を弾ませ喜ぶアヤに、リゼットもつられて笑う。
確かに、こんな風に外出するのは何年ぶりだろうか。なんとかこの地に定住してからは、もう二度と二人にあんな思いをさせまいとして、彼女たちに頑なに接してしまっていた。「そうだわ、エル。今日は魔獣が発生しているっていう話だったわね?」
「ん? ああ……今朝の報道ではそう言っていたな」
隣町に行くという話だが、街の外に出る場合、常に魔獣との接触のリスクが少なからず存在する。
エルキュールが今朝に魔獣を討伐したとはいえ、その脅威は健在だろう。「魔獣の心配なら大丈夫よ、母さん。今日は馬車を使って行けば。それに、私だって魔法学校に通う生徒なんだから、大事にはさせないよ」
そう言ってアヤは、ヌールの魔法学校の記章を自慢げに見せる。魔法学校の生徒であることの証明だ。
街と街の間を移動する馬車には、魔獣が不快に感じる魔除けの道具が備わっているため、徒歩に比べて安全に移動することができる。
加えて、アヤは魔法学校に通う生徒である。多少の戦闘の心得は知っているだろう。なるほど、それほど心配する必要はなさそうだった。
「私だって兄さんに負けないように頑張ってるんだよ。兄さんも心配しなくていいから、ね?」
「もちろん。全く心配していないわけじゃないが、アヤのことも信頼している。母さんのことは頼んだ」
エルキュールはアヤの美しい紫の髪を優しく撫で、彼女に念押しした。
「うん……ふふ、こうやって兄さんに頭を撫でられるのも久しぶりだなぁ……」
「……ああ、すまない。つい、昔のように接してしまったな」
アヤが幼いころはよくこうしていたが、今となってこの距離感は少し良くなかったかもしれない。もう彼女も子供ではないのだから。
エルキュールは手を引っ込めて自らの迂闊な行動を謝罪する。久々の兄妹の交流がかつての感覚を呼び戻したのだろうか。
「……もう、何でやめるの……バカ」
エルキュールなりの配慮だったが、それまで気持ちよさそうに目を細めていたアヤは、一転して不満をあらわにする。
予想外のアヤの反応にエルキュールは戸惑う。やはり、年頃の女性の心はエルキュールには理解できないようだ。
「仲良くしてるとこ悪いけど、エルの時間が限られてるでしょう? そろそろ出発しないかしら」
二人のやりとりに和みながら、リゼットは催促した。確かにそろそろ出発しなくては、約束の時間に間に合わないかもしれない。
「うん、そうだね母さん。ほら、兄さんも早く行こう?」
アヤが先行して玄関の方に向かう。笑いながらリゼットがそれに続。
二人とも今日は本当に楽しそうであった。エルキュールはその姿を目に焼き付けつつ扉をくぐった。◇◆◇
三年に及ぶ生活を通して、すっかり馴染んだヌールの街並みを三人並んで歩く。
とはいえ、今向かっている方向はエルキュールがいつも魔獣を狩っている平原とは逆の方向であるため、彼にとってはそれほど親しんだものでもなかった。
「ほら、兄さん。あれが私が通ってる学校だよ。兄さんはあまり見る機会がないでしょ?」
隣を歩くアヤが指さした先にはヌール魔法学校の敷地がある。恐らくヌールで最も広大な施設だろう、その敷地内には多くの建物が林立し、休日であるにもかかわらず賑やかな声が聞こえてくる。
「かなり騒がしいな……今日は休日だろう? こんなに賑わうものなのか?」
「うん、休日でも設備は使えるし……それに座学や実技の授業が難しいから、休みでも学校に来て勉強だったり魔法の練習だったりする人も多いみたい」
「そうなのか……それで、アヤは勉強しなくていいのか? もう二年目だし授業も難しいんじゃないか?」
魔人であるエルキュールは学校に通った経験がないので、そういった知識には明るくなかった。
幸い知識は書物である程度得ることができたので問題ないのだが、いわゆる常識というものには疎いままだ。
「私、これでも結構優秀なんだから心配いらないよ。それに、いざとなったら兄さんに教えてもらえればなぁ……って」
「……そんなに上目遣いをしても、魔法学校の勉強は教えられない」
アヤの頼みを一蹴してエルキュールは前に向き直る。流石に高等教育を教えられるほど、エルキュールの知識は多くない。彼のそっけない反応にアヤは頬を膨らませた。
独学の成果から、エルキュールは闇魔法を中心にある程度は使えることができるが、それでもその実力は魔法士ならまだしも、本職の魔術師には到底及ばないだろう。
ヌールの外に出る門が視界に入り始めた頃、エルキュールはとあることに気づく。
「ところで、この辺りはいつもこんなに人が多いのか?」
「あら、言ってなかったかしら? 今日から隣町のニースで月に一度の大市が始まるのよ。珍しいものもあるから、せっかくだし足を運んでみようと思ってね」
「……そういえば、もうそんな時期か……」
あまりそういったイベントのことは意識して来なかったので、気づくのに遅れてしまった。
隣町――ニースはヌールの東に位置する交易が盛んな町である。
ニースでは毎月三日から八日までの六日間、すなわち一週間にかけて大きな市場が開催される。
わざわざ買いものに行くのに隣町に行くと聞いたときは、ただの気まぐれかと流していたが、こういうことだったのか。「それで人がいつもより多いのか……」
この状況に納得したエルキュールだが、その表情は翳る。まあ、家を出る前に外見は整えてきたのでそこまで心配はないが、それでも不安は隠せなかった。
「……兄さん、堂々としてれば兄さんが魔人だってことはバレないから、大丈夫よ」
エルキュールの懸念に気づいたアヤが小声で励ます。
「……そうだな、見送りはここまでにしてもいいんだが……少し寄るところもあるし、門までは一緒に行こう」
「寄るところ? もしかして、素材の換金に行くの?」
左手にある鑑定屋を示しながらアヤが尋ねた。
「ああ、その通りだ」
先ほど知り合ったグレンも同じことをしようとしているが、エルキュールも普段から同様に素材の換金は行っている。
いつもはそれを家計の足しにリゼットに渡しているのだが、今回は買い物の足しにお金を持ってもらうつもりであった。「しばらく鑑定屋には行ってなかったわね……店主のアランさんも元気にしているかしら」
「母さんも店主と面識があったのか」
「ええ。ここでは珍しい雑貨も少し置いてあるから、たまに来るのよ」
お世辞にも人気のある店とは言えないが、買い物好きのリゼットはこの店にも足を運んでいるようだ。
古めかしい扉を開けると、独特な雰囲気の店内が目に入る。
リゼットは雑貨といっていたが、お洒落な調度品からエルキュールの目にはガラクタのように思えるようなものまで置いている。あまり店の棚に注目していなかったが中々の品揃えである。店のカウンターの方に目を向けると、店主は何やら客と話している様子が見えた。見たところ、それ以外の人の姿は見えない。
「はあっ!? 在庫切れだと!? この前来た時もそう言っていたじゃないか!」
「ふう……そう申されましても、ないものはないのですよ。勘弁してくれませんか」
――ただ話をしていたわけでなく、何やら揉めているようだった。
客は二人組の男で、店主に怒号を浴びせているのは煌びやかな服に身を包んだ青年であった。身につけている装飾品も高価であることから、恐らく貴族だということが推察できる。
しかし、エルキュールの貴族像といえば優雅で落ち着きのあって高貴な存在というものだったが、目の前にいる青年はその印象とは異なるものだった。
「ルイス様、ここは落ち着いてください。魔獣の剥製など……そうそう扱っているものではありません。その希少性は坊ちゃんも存じているでしょう?」
もう一人の客――騎士装束に身を包む男が貴族風の青年を窘める。主人に仕える近衛騎士だろうか。
「……それは分かっている! だが、ここは魔獣の素材を扱ってるという話ではないか! ……あと、坊ちゃんはやめろ!」
大声でまくしたてる青年――ルイスに騎士の男は「それは失礼しました」と華麗に受け流す。
その二人のやりとりを見るに、やはりルイスは身分の高い家柄であるようだ。それにしても、魔獣の剥製というものが貴族の間では好まれているのだろうか。エルキュールはその事実に少し辟易したように眉を歪める。
「……ウチの店には置いてませんが……王都の方では扱っているかもしれませんよ」
店主はルイスの剣幕を収めるように、優しい口調で話を逸らしつつ代案を述べる。
「フン、言われなくとも、こんな片田舎の野暮ったい街にはもう用はない! ……予定より少し早いが……王都に戻るぞ、レイモンド!」レイモンドと呼ばれた騎士の男は主であるルイスの後ろをついて、エルキュールたちがいる入口の方に向かってくる。
位置関係上、ルイスの目に当然入り口付近にいるエルキュールたちの姿が映る。
そのまま店内を出てくと思われたが、ルイスはエルキュールたちの方を見て……正確にはアヤの方を見たまま動きを止めた。「ほう、貴様……」
「あの……私に何か用ですか……?」
突然見つめられ、気まずさからアヤは視線を逸らす。先ほどのやり取りを見て、ルイスとは関わりたくないと思っていたのかもしれない。
「ふむ、これは中々……」
そんなアヤの様子は気にも留めず、ルイスはじろじろと彼女の顔を見つめ続け、険しい顔で何かをぶつぶつと呟き、意を決したように頷くと――
「――よし、決めたぞ! どうだ貴様、これからボクと共に王都に来ないか? こんな街にいては貴様の美しさも価値が薄れる。貴様にはもう少し有意義な生活をさせてやろう」
いきなりとんでもないことを抜かした。
その突然の告白に、店内にいた全員が固まり、それまで騒々しかった店内の時が止まった。
エルキュールと少女が魔人との戦闘を開始したころ、一方のグレンはその肩にカイルを担ぎ、来た道を急いで引き返していた。 すんでのところで魔獣に襲われていたカイルを救出することに成功したグレンらだったが、運が悪いことに魔人までこの件に噛んでいたのだ。 一般的に魔人は魔獣に比べ知能が高く、その力も強大である。そんな危険極まりない存在との戦闘に、カイルを巻き込むわけには行かなかった。 故にグレンは一刻も早くカイルを連れこの森から離れる必要があった。 それには一秒たりとも無駄にはできない。カイルは一人でこの森に入ったようだったが、起伏のあるこの地形は子供の足で進むには時間がかかる。 ならば多少無理やりにでもカイルを担いでグレン一人の足でさっさと脱出してしまうのが得策ではある。 そうした判断の下、グレンはここまで一心不乱に駆けてきたのだが――「おい、はなせって、もう! いたいんだって、このツンツン頭!」「うるせぇ、ってかツンツンじゃねえ、グレンだ」 それまで沈黙を貫いていたグレンの口から遂に不平の声が上がる。 だがそれも無理からぬことであろう。他人の髪型に対する失礼な物言いもそうだが、先ほどからグレンの肩の上でカイルが暴れるのをやめないのだ。 加えてカイルが手足を動かすたび、グレンの腹やら頭やらにぶつかるものだから、今となってはその打たれた部分に鈍い痛みが走っていた。 こちらは助けに来た側だというのにあまりの仕打ちだった。グレンは打ち付けられた痛みと理不尽さから生じる苛立ちに顔を歪ませた。「ちっとは静かにしろよ。街に着いたらお望み通り放してやるからよ」「それじゃあダメなんだ! このままじゃジェナお姉ちゃんが――」「またそれかよ……ったく」 一向に抵抗を止めないカイルに嘆息する。どうやら魔術師の少女が危険に曝されている現状に我慢ならないようだった。 そういえばカイルはずっと魔術師の名前を口にしていたが、ここにきてようやくグレンはその理由に思い当たった。 クラーク夫妻の話では子供た
魔獣に囲まれていたカイルと魔術師の少女に加勢したエルキュールらの前に現れたのは、人型イブリス――魔人と称される生命体だった。その数は三体であり、それぞれの体表面には深緑の魔素質が浮き出ていた。「なんでこんなとこに魔人がいるんだよ!」 グレンの悲鳴は当然のことで、魔人というのは魔獣に比べて数も少なく、通常ならほとんど遭遇することもない。 その理由には魔人の発生過程が関係している。リーベである人間が魔物による汚染されることで、人間が魔人へと変貌する。現存する魔人はおおよそ汚染によって生まれているため、一般論で考えればここにいる魔人にも元になった人間――オリジナルがいるはずである。 しかし、こんな森の奥にそんな人間がいるものだろうか――「……まさか」「うん、多分……あなたの思った通りだよ」 エルキュールの中に生まれた確信は、その傍らに構えている魔術師の言葉によって裏付けられた。 現れた魔人に共通している要素として、身体の大きさ、魔素質の属性はもちろん、身体に付着している特徴的な金属片があった。 魔人には金属を纏う特徴などない。つまりあの金属片は魔人としての特徴ではなく、人間だったころの特徴であると解釈するべきなのだ。 そして、あの銀色の輝きはエルキュールの目にも新しく、ここのアルトニーの騎士隊が身につけていた甲冑のものと酷似していた。 そこまで考えたところでエルキュールは自身の益体のない想像を止めた。これ以上考察を並べても不快になるだけなのは明らかだった。どちらにせよ、これから為すべきことは決まっている。 エルキュールは手にしていたハルバードを前に構えた。幾度となく魔獣を、同朋を屠ってきた得物である。この武器で今回も同じように斬ってやればいいだけだ。 刃を向けられた魔人はおぞましい雄叫びをあげた。それに伴って辺りに魔力が迸る。オリジナルとなった人間が騎士であることから、その戦闘力は比較的高いと思われる。流石にカイルを守りながらでは厳しいだろう。「……魔人どもは俺が食い止める。二人はカイルを守りながら魔獣に対処してくれ」「え……?
グレン・ブラッドフォード――カーティス隊長が呼んだその名前をエルキュールは胸中で反芻する。グレンの苗字を尋ねることはなかったため、今になって初めてグレンのフルネームを知ったからというのもある。 が、そのこと以上にエルキュールが気になったのは、グレンがその名を冠しているという事実であった。 ブラッドフォード。先ほどの会話でもあったブラッドフォード騎士裁判所は現ブラッドフォード家当主のヴォルフガング氏の提案で設立された国家機関であり、同氏が裁判長を勤めているというのは広く知れ渡っていることだ。 もちろんそれも大層なものだが、ブラッドフォード家といえばオルレーヌ建国時から大きな力を持っている武家の一つとしても有名だ。その歴代当主は紅炎騎士の称号で呼ばれ、この国の防衛や政治にも携わっている。 養子とはいえ、今まで旅をしてきた連れがそんな大家に連なるものだと知れば、多少驚くのも無理はないことだった。「……ったく、名乗るつもりなんかなかったのによ」 思わぬところで自身のことを明るみに出され、グレンは煩わしそうに呻いた。「あなたがあの家に対してどのような思いを持っておられるかはさておき、この場は是非ともお力をお借りしたいものですねぇ」 グレンの態度を前に、カーティス隊長はその年に相応な柔和な笑みを浮かべた。申し訳なさそうな表情ではあったが、その声は相変わらず強い意志のようなものが混じっており、その年でここの騎士を任せられているのも納得の胆力を感じさせた。「それは分かってる。ま、一応オレが仲介すれば楽に手続きできるとは思うぜ」「ええ、感謝しますよ、グレン卿」 その会話から察するに、グレンの協力によってこのジェイクを正しく裁くように計らうようだ。当の本人はようやくその事実を認識したのか、その顔には絶望の色が広がった。「な……嘘だろ? 待ってくれ、違うんだ、俺は――」「いいえ? 何も違うことなどありませんよ、ジェイク。少なくともあなたが虚偽の理由で任務を放棄しようとした事実は、私を含めたこの場の証言だけでも証明できるでしょうし……そちらのご家族の件の詳細によってはより罪は重くなるや
ヌールからの旅人であることから、アルトニーの騎士詰所を訪ねるよう申し出を受けたエルキュールとグレン。その言葉の通りに赴いた二人だったが、そこで待ち受けていたのはある男の悲痛な叫びであった。 男の放った言葉に、グレンとエルキュールの顔も険しいものに変わった。 ――このままでは息子が……カイルが魔獣に殺されてしまうかもしれないのです……! 魔獣に殺される。あまりにも物騒なその言葉に、それまで入口の方で様子を見守っていたエルキュールも、男たちがいる詰所内の隅の方へ向かう。「それはどういう意味ですか?」 エルキュールが突如として会話に入ってきたことに多少驚いた素振りを見せたが、男は絞りだすように詳しい経緯を語り始めた。 男の名はリチャード・クラーク、傍らにいる女性と少女はそれぞれ彼の妻と娘であり、ここから西にあるガレアで農業を営んでいるらしい。 ここアルトニーへはニースで催されている大市に参加するために一時的に滞在しており、本来ならば一昨日の三日にはヌールへと向かっていたはずだった。「あなた方もご存じかもしれませんがその日は魔獣が大量発生しており、一般人の通行が制限されていたのです」 あの日のことについてはエルキュールもよく知っていた。ヌール・ガレア方面での魔獣の大量発生、当日の該当区間の通行には魔法士などの専門職の同行が必須だったのだ。「まあ、制限の方は然程問題ではなかったのですけどね……本当にあの魔術師さんには頭が上がりません」「魔術師だ? そんなお偉いさんがこの街にいたのかよ」 魔術師という単語にグレンは大仰に反応した。魔法士の上位職である魔術師は数も限られており、優れた魔法技術を持つことから国からも重宝されている。 一介の農商が雇うというのは少し珍しく、エルキュールも意外そうな目で相槌を打った。「いえ、雇ったというより彼女の目的のついでに、といった話でしたが……ともかくこれで何の憂いもなくニースへ、そう思っていたのに」
グレンが目を覚ましたのは翌日の早朝のことだった。 昨日からほぼ丸一日もの時間熟睡したグレンは大層機嫌がいいようで、ベッドから起き上がるとすぐに足を曲げたり手を回したり、身体を曲げたり跳ねたりして、発祥不明のよく分からない体操に精を出していた。「ふぃ~……って、どうしたエルキュール、そんな冷たい顔してよ」 仕上げの深呼吸まで丁寧に終えると、グレンはそれまで仏頂面でベッドに腰かけていたエルキュールを見やる。その額には汗が滲んでおり、それが光に照らされ煌めいているものだから、彼の彫りが深く精悍な顔つきと相まって絵画のような芸術性をもたらしていた。「――実に見事な動きだと思っていた」「『何て馬鹿な動きをしているんだろう』って思ってたってかぁ!なあ!」 物に当たらないよう広い空間で体操をしていたグレンは、大股でエルキュールの前に歩み寄ると腰に手を当て大声で怒鳴った。 謂れのない怒りに首をかしげるエルキュールに、「顔が物語ってるんだよ!」と彼の顔の目の前に指さしながらグレンは続ける。「いいか、朝の運動っていうのは人間のその日の代謝を向上させる上に体操ってのは普段使わない筋肉を使うことからより効果的に――」「それは分かっているさ」 グレンの妙な壺を刺激してしまったことを後悔しながらエルキュールは両手で制止する。「それより、昨日した約束のことを覚えているか? 王都を目指す前に、まずは騎士団の詰所へ顔を出そう」 建設的に話を進めるべく、人差し指を立てゆっくりと提案する。その重みのある声にグレンも矛先を収め、手拭いで額の汗を拭きながら応じる。「ああ、ここの騎士には既に連絡がいっているのかもしれねえが、情報を共有するのは大事だからな。それが済んだらいよいよ王都か――」 どこか遠い目をして呟くグレンをエルキュールは疑問に思った。何かを懐かしんでいる、そんな風に見て取れた。 よほど表情に出ていたのか、グレンはエルキュールの視線に気づくと苦笑し頭を掻いた。「――王都にはアマルティアの仲間が潜んでいるかもしれねえからな、
「おっ、やっと見えてきたなぁ。ふわぁ……」 隣を歩く赤髪の青年、グレンが眠そうに欠伸を零したのを見て、エルキュールは歩を止めて彼の様子を窺った。もう目と鼻の先にあるアルトニーの街を見据えるその顔には疲労が滲んでおり、声にも覇気が感じられなかった。 お互い心に秘めるものはあるものの、とりあえずは共に王都を目指すことになった二人ではあるが、流石にここまで徒歩で来るのは無理があったのかもしれない。 エルキュールとグレンの最初の出会いから既に丸一日は経過している上、魔獣との戦闘やヌールでの事件に巻き込まれたことから相当に体力を消費させられた。 魔人であるエルキュールは先ほど魔素を吸収して身体を回復させることが出来たが、対するグレンはあのヌール郊外の天幕の固い床で小一時間眠っただけである。流石に疲労困憊であろう。「街に着いたら早々に宿をとってしまおう、グレン。……空いているといいんだが」「ああ、まったくだな。……柔らけえベッドが恋しいぜ」 エルキュールの提案に、グレンは弱々しくはあるが確かな笑みを返した。 そうこうする内に街の入り口にある門に差し掛かる。門に控えている見張り役の騎士が二人に気が付いたようで、大層驚いた様子で彼らの下へ駆け寄ってくる。「お、おーい! 君たち、まさかとは思うがヌールから来たのかい!?」「そうですね……それより、街に空いている宿はありますか? ここまで寝ずに来たので休みたいのですが」 疲れて口もきけないグレンに代わってエルキュールが応じた。 騎士の男は二人の事情が気になって仕方がないといった様子だったが、流石にこの場で根掘り葉掘り尋ねるのも酷だと思ったのだろう、言葉少なに現在のアルトニーの様子を説明すると空いている宿を案内してくれた。「そうだ、明日にでもいいから我々が駐屯している騎士隊詰所に顔を出してくれないかな? どうやら一般人というわけでもなさそうだし、我々もヌールについては未だ不明の点が多いからね。強制はできないが、協力してくれると助か